限界を超えた組織

組織によっては、スーパーCEOで持ってしても経営が不可能な企業がある。

これと同様のことが今の中国に言える。

大国中国を統治するのは大変難しく、為政者としての手腕が卓越していても尚、困難を極める。中国という不安定な国は、統治される限界を既に超えている。

人間に当て嵌めれば、自我がうまくコントロールされていない状況であるから、客観的に変に見えたり矛盾もあれば、理解し難い動きをする。内政に配慮しながら外交問題を処理するのは、人間業を超越しているかのよう。言論が抑制されるのも、知識人が真実と正義を主張しだせば国家運営の危機を引き起こしかねないから。

以上を一般化すると、統治や経営の限界を超えた組織体が、どのようにトップの影響を受けるか? 頻発する問題に対してどのようにコントロールされ得るのか?そして組織体はどう反応するのか?

主に、トップと組織との相互関係についてどう考えるか。

きれいは汚い、汚いはきれい

右と左、+と−を間違えたとき、頭の中に閃いたものがあった。

それは大胆かつ奇妙な仮説だが、左も右も等価、+も−も等価という考えで、現実には一歩間違えれば重大なことになるのは承知している。しかし上と下の価値も、ただ上が良くて、下が悪いと思い込んでいるだけであって、実際は価値の差でしかなく、優劣ではないのではないか?

つまり下位の価値を低いとし、上位の価値を高いとする判断は、時代的、文化的なものにより規定されているのではないか?

どうして健康が善で、病気が悪と言えるのか?それが当たり前だと思っているからで人体に悪だからと言って即、悪とする理由はない。それが唯一の理由なのなら不十分であり、厳密な意味での根拠とはならない。ここに思考停止を見る。

マクベスの台詞に「きれいは汚い、汚いはきれい」という言葉がある。詩人の直感は、時に最先端の科学をも飛び越える。

成績と創造力

ニュートンの成績が良くなかったというのは有名な話である。これまで無かった新しい学問体系を創造しようという人物の成績がいい筈がない。

間違った、あるいは納得のいかない学問を教えられ、(それが正解になるのだが)教えられた通りに悶々たる感情を秘めたまま解答を書くのにいい成績が取れるわけがない。

記憶が優れ頭の回転の速い人を優秀と呼ぶが、記憶のいい人は創造に弱い印象がある。

確かにモーツァルトピカソ、フォン.ノイマン、は抜群の記憶力の持ち主であったが、革命的な創造をした訳ではない。革命的なとは、例えば、コペルニクス、ルソー、マルクスアインシュタインなど、既成の概念の壁を突き破る業績を挙げた人を特に言う。

現状を素直に受け入れる精神では、つまり今に納得する精神に新しい発見は期待できない。現状に疑問を抱いているからこそ創造する。

21世紀の正解が必ずしも将来の正解とはならないのだから。

pp’+A

(PP’+A)という公式を考えた。Pは精神分析を、P’は哲学を表す。またAは芸術のことである。

P↔︎P’という関係に着目しよう。Pの精神分析は自己が自己について思考することであって、主体は=対象となる。しかしP’の哲学は認識の学であるから、主体が認識対象を目指している。

現象学は、主体の中に対象も含まれれるが、この点は保留にしておく。(主体の方向性が重要で、主体が主体自身に向いているか、あるいは主体が対象の方向を向いているか)。

Aで示した芸術は、文学、絵画、音楽、演劇、映画など、才能や個人のインスピレーションに深く関係する分野である。

一個の人間が、自己という内的世界を研究すること(P)、外的世界の認識に努めること(P’)およびその方法と研究。ただ、この二つのみだと人間としてどこか硬直化してしまう畏れがある。

人間的であるためには、芸術の享受または自ら芸術活動をするべきである。

硬直化と精神的な行き詰まりの例は『吾輩は猫である』を執筆する以前の漱石と書き終わった後の漱石で、芸術活動を通じて昇華に成功したのだと分析できる。表現活動をしなかったら漱石はかなり危なかったと思われる。

一般知性の下落

AIの登場は否応なく人間の知的労働力の価値を下落させる。逆に上がるのは身体である。但しロボットで代替される身体ではない。

頭脳も勿論、身体の一部であるが、両者の関係は十分に解明されているとは言い難い。個人的には身体の意味さえ知られていないと思う。人間の強みは頭脳が身体と繋がっていることにある。無意識も身体からエネルギーを受けているとすれば精神分析が再び脚光を浴びる可能性が高い。

ロボットにAIが搭載され、知性を持った勝手に動く自律的機械の誕生となるが、人間と違い無機質である。無機質とはイメージとして液体とか肉に縁がないこと、及びAIは、今のところアナログではなくデジタルである。

ここまでは常識的な論理で導き出せるが、ロボットとAIの次の段階があるとすれば、これまでの常識がどこまで通用するのか判らない。

おのおの考えてみて欲しい。

未知の存在のかたち

未だ明らかになっていない未知の存在が、仮に存在していると仮定する。その存在は、問いと解というかたちで表現されるが、存在自体が知られていないので問われない。そもそも難問は問われているという意味で、存在を既に明らかにしている。ただ解く作業に行き詰っているに過ぎない。

だが真の難問は問われることはない。また存在は問いと解とのセットである。言い換えるならば、問いは存在の半分を示し、解はもう半分の存在を示す。この二つを加えてはじめて存在が証明される。

どうやって問いを発見するのかに興味があるが、いま存在が明らかになっているものの多くは、常識の近くにある。一方で新しい存在は常識から限りなく乖離しているはずだ。

問いを発見するためには、少なくとも既存の思考の枠内で考えても無理であろう。

混沌に体系を与える

レビィ=ストロースの「野生の思考」。

未開人は野蛮と見做されてきたが、彼らの思考が西洋人と同水準と言えるほど秩序立ったものでかつ明晰であることを著者は示した。つまり見方を変えれば立派に深い意味があった。

未開人の言動や風習の理解は、西欧の理性から捉えられたもので無意味、不可思議、奇妙で愚かなものという一方的な偏見の中にあった。

レビィ=ストロースは、一見無秩序に見える未開人の思考と行動の内に秩序を見出した。ここがポイントであり普遍的な思想である。

いまここに了解不可能な他者あるいは現象があるとする。これを理解可能にする手法を発見することができれば、了解範囲内に持ち込める。混沌に体系を与える作業の可能性を彼は教えてくれる。

2016現在、未開人と同様、東洋の内向き文化の潜在的な卓越性はそれほど認知されていないように感じるし、数学も科学も西洋的思考から生じたものに過ぎない。過ぎないとは東洋的なる数学とは語弊があるが、そのような何か未だ価値体系に収まっていない、新しい認識のための知的な方法や手段があるかもしれないのに。

価値体系を与える主体は誰かと言えば、西洋的で意識的な思考である。知的という言葉には頭脳主義の臭いがする。ロダンの「考える人」にその典型を見る。

思考のベクトルはIQに代表されるように未だ西洋から東洋の方向に向いているのは何故か?

そして東洋からみた西洋となる時代が、やがて到来するのか?