身体の声

肉体を猛烈に酷使したときに、身体がみずから声をだすことがある。普段は頭で考えだされる声が、身体の力と頭の力の連携により声をだす。そしてそれは言葉となって表出される。

このときの精神状態は半ば恍惚としていて、意識が明晰とは懸け離れ、あたかも霞が掛かったように朦朧としている。酩酊しているのに似ている。緊張は無くむしろ鈍感になっているのだが、異常な集中力で身体が頭脳以上の働きをする。このとき確かに身体が主体になっている。

身体が言葉を発するためには、肉体が限界近くまで疲労せねばならない。だが、これだけでは十分ではない。あらかじめ頭脳の意識的な運動が前提となる。唯の肉体労働者であるだけでは身体の声を聞くことはできない。

身体の声は、身体のみならず蓄積された知的作業を介して、突発的に起こる現象であるらしい。

歪曲される言語

言葉だけで、その人を判断することはできない。なぜなら、彼の思いが言葉に変換されるためには技術が必要だから。これは自分の思春期の頃を想像すれば分かる。言いたいことが上手く言葉で表現できないもどかしさを感じたはずだ。

他人は言葉でしか判断しないが、言葉の運用のうまい人と下手な人がいる。

言葉になる前の観念は、彼らの頭の中にある。彼は、その観念をどのようにしたらそのままの形で、言葉に変換できるかに尽力する。

うまく言葉にできたとしても、次の問題に直面する。すなわち、それを理解しようと試みる第三者の了解問題である。言葉がその通りに理解されれば本望だが、人間の理解には癖がある。第三者の思考習慣に則り、言葉の真意を都合のいいように解釈しようとするだろう。この時点で、初めの言葉はかなり歪曲される。

こうしてコミニュケーションは誤解される。

限界を超えた組織

組織によっては、スーパーCEOで持ってしても経営が不可能な企業がある。

これと同様のことが今の中国に言える。

大国中国を統治するのは大変難しく、為政者としての手腕が卓越していても尚、困難を極める。中国という不安定な国は、統治される限界を既に超えている。

人間に当て嵌めれば、自我がうまくコントロールされていない状況であるから、客観的に変に見えたり矛盾もあれば、理解し難い動きをする。内政に配慮しながら外交問題を処理するのは、人間業を超越しているかのよう。言論が抑制されるのも、知識人が真実と正義を主張しだせば国家運営の危機を引き起こしかねないから。

以上を一般化すると、統治や経営の限界を超えた組織体が、どのようにトップの影響を受けるか? 頻発する問題に対してどのようにコントロールされ得るのか?そして組織体はどう反応するのか?

主に、トップと組織との相互関係についてどう考えるか。

きれいは汚い、汚いはきれい

右と左、+と−を間違えたとき、頭の中に閃いたものがあった。

それは大胆かつ奇妙な仮説だが、左も右も等価、+も−も等価という考えで、現実には一歩間違えれば重大なことになるのは承知している。しかし上と下の価値も、ただ上が良くて、下が悪いと思い込んでいるだけであって、実際は価値の差でしかなく、優劣ではないのではないか?

つまり下位の価値を低いとし、上位の価値を高いとする判断は、時代的、文化的なものにより規定されているのではないか?

どうして健康が善で、病気が悪と言えるのか?それが当たり前だと思っているからで人体に悪だからと言って即、悪とする理由はない。それが唯一の理由なのなら不十分であり、厳密な意味での根拠とはならない。ここに思考停止を見る。

マクベスの台詞に「きれいは汚い、汚いはきれい」という言葉がある。詩人の直感は、時に最先端の科学をも飛び越える。

成績と創造力

ニュートンの成績が良くなかったというのは有名な話である。これまで無かった新しい学問体系を創造しようという人物の成績がいい筈がない。

間違った、あるいは納得のいかない学問を教えられ、(それが正解になるのだが)教えられた通りに悶々たる感情を秘めたまま解答を書くのにいい成績が取れるわけがない。

記憶が優れ頭の回転の速い人を優秀と呼ぶが、記憶のいい人は創造に弱い印象がある。

確かにモーツァルトピカソ、フォン.ノイマン、は抜群の記憶力の持ち主であったが、革命的な創造をした訳ではない。革命的なとは、例えば、コペルニクス、ルソー、マルクスアインシュタインなど、既成の概念の壁を突き破る業績を挙げた人を特に言う。

現状を素直に受け入れる精神では、つまり今に納得する精神に新しい発見は期待できない。現状に疑問を抱いているからこそ創造する。

21世紀の正解が必ずしも将来の正解とはならないのだから。

pp’+A

(PP’+A)という公式を考えた。Pは精神分析を、P’は哲学を表す。またAは芸術のことである。

P↔︎P’という関係に着目しよう。Pの精神分析は自己が自己について思考することであって、主体は=対象となる。しかしP’の哲学は認識の学であるから、主体が認識対象を目指している。

現象学は、主体の中に対象も含まれれるが、この点は保留にしておく。(主体の方向性が重要で、主体が主体自身に向いているか、あるいは主体が対象の方向を向いているか)。

Aで示した芸術は、文学、絵画、音楽、演劇、映画など、才能や個人のインスピレーションに深く関係する分野である。

一個の人間が、自己という内的世界を研究すること(P)、外的世界の認識に努めること(P’)およびその方法と研究。ただ、この二つのみだと人間としてどこか硬直化してしまう畏れがある。

人間的であるためには、芸術の享受または自ら芸術活動をするべきである。

硬直化と精神的な行き詰まりの例は『吾輩は猫である』を執筆する以前の漱石と書き終わった後の漱石で、芸術活動を通じて昇華に成功したのだと分析できる。表現活動をしなかったら漱石はかなり危なかったと思われる。

一般知性の下落

AIの登場は否応なく人間の知的労働力の価値を下落させる。逆に上がるのは身体である。但しロボットで代替される身体ではない。

頭脳も勿論、身体の一部であるが、両者の関係は十分に解明されているとは言い難い。個人的には身体の意味さえ知られていないと思う。人間の強みは頭脳が身体と繋がっていることにある。無意識も身体からエネルギーを受けているとすれば精神分析が再び脚光を浴びる可能性が高い。

ロボットにAIが搭載され、知性を持った勝手に動く自律的機械の誕生となるが、人間と違い無機質である。無機質とはイメージとして液体とか肉に縁がないこと、及びAIは、今のところアナログではなくデジタルである。

ここまでは常識的な論理で導き出せるが、ロボットとAIの次の段階があるとすれば、これまでの常識がどこまで通用するのか判らない。

おのおの考えてみて欲しい。