作者の死

作品と作者が関係を保つのは作者が生存中に於いてのみである。作者の死は作品の新たな誕生で、それは自由に動き回る。作者の死は作品を自由の身にして束縛から解き放つ。自由になった作品は作者がどんな人物であったかは一切問わないし気にもしない。過去に作者の作品であったとさえ言ってもいい。作品は作者から独立し永久に乖離することができる。これは作品の特権であり作品自体が人格を持つことになる。責任の所在は消滅し作品にとって作者の存在はもはやどうでもいい。作者が問題なのではない。残された作品こそが全てを語るのだ。作者が作品と縁を切るとは作者が誰であっても構わないこと、更に作者の人格さえ問わないことを意味する。作者の死により作品は自由に飛ぶことができる。

たまご

おそらく人間には見えない卵が至るところに点在し、空中もしくは地下をぼうふらのように彷徨っている。

卵は、問いと解の混合から成り立っている。卵が発見できたとすれば解も自ずと判明する。卵は主体からみれば対象になるが、必ずしも主体からという方向がある訳ではない。対象に主体が引き寄せられるとも考えられる。

関係の問題であり、卵の存在関係に意識が入ることができれば良い。ここで卵とは真理とかイデアのことを表現しているのだが。真実の発見についての疑問に対して、回答と問題が一つの卵のかたちで透明に存在し、分離していないことに注意したい。

私の控えめな閃きは、分離されていない一つの卵の存在に関係することにより、問いと答えが同時に立ち現れるという予想である。

繰り返すと、問題は解決しようと考えられるべき性質のものではなくて、ここで卵と表現した関係性に、言わば未知なる世界と関係を持つことによって真理なるものは浮き上がってくるものだといいたい。

 

オンナの集合

女が3人以上集まり、噂話に花を咲かせる。傍らで聴いていると、若い女性の集まりの中で、幾つもの意見が行き交い回転し、元に戻っては修正されながら、一定の結論に収束していく。

こうして噂話による価値の評価が下るのである。

会話を楽しみつつも集合知に至るのだが、案外この評価が的を射ていることに気付く。一般に女性は単独では結論を出したがらず、数人もの同性同士の集団でのやり取りの過程で意見を決定する。恰も、女の集団が一個の人格をもったかのような錯覚に陥る。

思考の動きはネットワーク的であり、横に流れるが如く繋がる。男が上下に動くとすれば、女は横に広がるようにして動く。

これらの観察により、男性よりも女性の方がより社会的かつ政治的であることが分かる。

 

 

数学的理解による世界

「世界の中で理解できない最たることは、世界ができることである」とアインシュタインは言ったが、この言葉は些か古く感じられる。

というのは、数学の論理で導かれたものを真理の度合いの高い位置に置いているからだ。世界を理解したのではなくて、数学の論理で把握されたものを限定的に世界の理解としたのである。つまりこのとき世界は数学という純粋な言語によって切り取られたらこそ、理解が可能になった。逆に、数学的に表現されなければ世界の理解は厳密に共有されない。

世界がもし数学以外の論理で表現できたとしても、それは承認され難い。世界の理解は今のところ、数学的に理解をされるのを待っているのであり、その他の方法が見当たらない。数学と科学に反抗する精神は現実的ではない。

言葉の誕生

言葉が生まれる瞬間とはどんなものか?

完成された形で言葉を使い始める者は少ない。

はじめは何となく曖昧で、はっきりしない星雲の如き観念が頭の中に生じ、それを言葉に変換した瞬間に自然と、誠に不可解なことなのだが、次に来るべき言葉と文脈が同時進行で立ち現れる。言葉が次の言葉を井戸のような混沌から引っ張り出す。但し、自由連想とは異なり意識の関与がある点に注意。

考えたことを喋っているのではなく、恰も何者かによって、喋らされているといった感覚に近くなる。精神医学的には病的状態に分類されるが、言葉が誕生する瞬間とその過程をつぶさに分析してみるならば、前もって準備された言葉の方が稀な現象だと言いたくなる。

それぞれの理解

人間に対してであれ、物事に対してであれ、何かを理解するとき同時に自分の理解の法則に従っている。同じ現象に対しても、人それぞれ理解の仕方が異なるのは理解の法則が人それぞれ違うからである。人はおのれの器の範囲内で物事を理解し解釈する。理解が深くなるためには理解するための法則そのものが深淵かつ豊かでなければならない。謎を理解しようとする者は、自身にも謎を秘めている。

世界の認識と物事一般の理解とは、どこがどう異なるのか?世界の認識の仕方にその人の特徴が端的に現れるが、主観が何から成り立っているかによって理解と認識の度合が違ってくる。

単純に、よい主体はよい世界認識を持ち、反対に悪い主体は悪い世界認識を持つと言える。よい主体と悪い主体がどのように構成されるかと尋ねるならば、生まれ育った環境、そこから生じた気質と日常習慣や癖、興味の方向や嗜好などによるであろう。誰しもが偏見の眼で世界を見ており、それがどのような偏見であるかは本人には解らない。真実は常にその人にとって歪んでいる。

ユダヤ的思考

長くて冗長な文章を書く柄ではない。ラ.ロシュフーコーのように端的に短く書きたい。知的方面でも短距離走者なのだ。カフカフロイトを読み、自由な空想の羽根を飛翔させる。音楽を人生の中で重要なものと位置付けているのはなぜか変わらず、バッハを弾くことにこだわる。最近はミシェル.フーコーが面白い。マルクスも再読していて、商品の価値と労働力の結晶の関係、貨幣と交換価値ついて熟考している。毎日、新しい情報に振り回され、時代に乗り遅れないように2016.8月はフィンテックの入門も齧る。それまでにIot、インダストリー4.0、AI の知識が要る。つくづくアメリカは金融と新しいアイデアに積極的で、日本は10年遅れていること分かる。

随分と道草を食ったが、一重に欲張りな性質と総合的な人生と知的かつ文化的かつ、世の趨勢を無視できない頑固で固陋な性格のためで致し方ない。20年以上、一貫していることは、学問的でないが自由で芸術的な型に嵌らない思索であるが、明確な成果としてなかなか結実しないのが焦燥感となって毎日私を苦しめる。私の中には貴族的なものと奴隷的なものが相反するように同居しているようだ。

ユダヤ的思考について興味を惹かれたのはカフカを読み始めたのがキッカケである。ユダヤ的な思考というものが確かにある。カフカフロイトマルクスフッサールプルーストアインシュタイン、P.ドラッカーシャガールマーラー、ホロビィッツ、レヴィ=ストロース、など全てユダヤ人であった。ユダヤ人には独特の匂いがある。知性を重んじ精神的にタフな印象がある。多少薄情なところも見受けられる。偶然にもカフカを通じて、それも執拗なまでにくり返し格闘しながら、ユダヤ的思考が何たるものかが薄っすらと理解しかけたところで、著名なユダヤ人の業績や作品に接することに意識的になった。いま読んでいるメラニー、クラインという精神分析家もユダヤ人だ。

知恵を携帯する民族であること、長年の迫害の歴史から誰よりも、卓越していることが当たり前なこととして刷り込まれている人種。前提からして世界がどうなろうが生き延びる術をつねに持っていること。頼れるのは唯一自分の能力にあるとの強い意志。思うに人並み以上に考えるとユダヤ人の思考にどうしても近づくのは何か意味があるに違いない。一定以上の思考をすることで自然とユダヤ人的思考が向こうの方からやってくる。時間は限られている。ユダヤ的思考を完全に身につけ、東洋人である遺伝子を利用して新しいものを見出すことが当面の課題である。

思考には一神教のものと多神教のものがあると予想され、時代の要請は一神教であるが、多神教の思考には豊饒さと巨大さがあり、これから徐々に見直されるであろう。尚、多神教は女性的なイメージがある。