読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

作品美醜

どんな作品にも容貌の美醜や若さ、老いがある。さらにいうと脚やお尻だってある。さらにさらにいえば乳や陰部だってある。若さと美しさを作品に求めているのであろうが…ときに作品は屁を放つ=

使いこなす=成熟

何だかね。昔の文豪は言葉を使いこなしていたけれども、現代の作家は言葉に使われている。使いこなすっていうのは難しい。道具に使われている人間の如何に多いことか!例えば、若い女は自分の身体をも使いこなせないでいる。彼女よりも身体の方が多くを語っている。彼女が身体に乗っ取られていて身体の直接の主人になり損ねているとでも言おうか。楽器だってそう。使いこなせるようになるまでが大変。たいてい楽器に弄ばされている。楽器の方が偉ぶっている。そこで、結論!成熟とはおのれと道具のもろもろをつかいこなせる術を身につけた大人のことをいう。

メモ

引用する時間があるなら自分の頭で考えた方がよっぽどまし。他人の頭で考えて成功してもつまらない。代理や委任ではなく主体は自分にあること。主体からの発生がわたしの全体なのだから。

道草

レヴィナスの「全体性と無限」マルクスの「資本論フロイトの「夢判断」プルースト失われた時を求めて」など鞄に詰め込んで読む。

レヴィナス。同と他が出逢うときに存在が現れるのであって同という存在から他を見るのではないこと。他者との出逢いの瞬間に存在が明らかになる。これはマルクスの商品と貨幣の交換に似ている。労働力の結晶である商品が貨幣になるとき、労働力の抽象化がなされ一旦商品という存在形態をやめる。そこから命がけの飛躍を経て貨幣にたどり着く。貨幣になるまでに一旦存在が無くなる。レヴィナスの存在の瞬間的な現れを彷彿させる。他者は裸で存在をそれ自身照らしているというアイデアは面白い。誤読かもしれないが感動したのだから一応書いておく。ハイディガーの存在論と違い、他者を絶対的なものと見る。読んでいるうちに自分の存在が定まらず主体そのものを動かされる印象がある。

作者の死

作品と作者が関係を保つのは作者が生存中に於いてのみである。作者の死は作品の新たな誕生で、それは自由に動き回る。作者の死は作品を自由の身にして束縛から解き放つ。自由になった作品は作者がどんな人物であったかは一切問わないし気にもしない。過去に作者の作品であったとさえ言ってもいい。作品は作者から独立し永久に乖離することができる。これは作品の特権であり作品自体が人格を持つことになる。責任の所在は消滅し作品にとって作者の存在はもはやどうでもいい。作者が問題なのではない。残された作品こそが全てを語るのだ。作者が作品と縁を切るとは作者が誰であっても構わないこと、更に作者の人格さえ問わないことを意味する。作者の死により作品は自由に飛ぶことができる。

たまご

おそらく人間には見えない卵が至るところに点在し、空中もしくは地下をぼうふらのように彷徨っている。

卵は、問いと解の混合から成り立っている。卵が発見できたとすれば解も自ずと判明する。卵は主体からみれば対象になるが、必ずしも主体からという方向がある訳ではない。対象に主体が引き寄せられるとも考えられる。

関係の問題であり、卵の存在関係に意識が入ることができれば良い。ここで卵とは真理とかイデアのことを表現しているのだが。真実の発見についての疑問に対して、回答と問題が一つの卵のかたちで透明に存在し、分離していないことに注意したい。

私の控えめな閃きは、分離されていない一つの卵の存在に関係することにより、問いと答えが同時に立ち現れるという予想である。

繰り返すと、問題は解決しようと考えられるべき性質のものではなくて、ここで卵と表現した関係性に、言わば未知なる世界と関係を持つことによって真理なるものは浮き上がってくるものだといいたい。