ユダヤ的思考

長くて冗長な文章を書く柄ではない。ラ.ロシュフーコーのように端的に短く書きたい。知的方面でも短距離走者なのだ。カフカフロイトを読み、自由な空想の羽根を飛翔させる。音楽を人生の中で重要なものと位置付けているのはなぜか変わらず、バッハを弾くことにこだわる。最近はミシェル.フーコーが面白い。マルクスも再読していて、商品の価値と労働力の結晶の関係、貨幣と交換価値ついて熟考している。毎日、新しい情報に振り回され、時代に乗り遅れないように2016.8月はフィンテックの入門も齧る。それまでにIot、インダストリー4.0、AI の知識が要る。つくづくアメリカは金融と新しいアイデアに積極的で、日本は10年遅れていること分かる。

随分と道草を食ったが、一重に欲張りな性質と総合的な人生と知的かつ文化的かつ、世の趨勢を無視できない頑固で固陋な性格のためで致し方ない。20年以上、一貫していることは、学問的でないが自由で芸術的な型に嵌らない思索であるが、明確な成果としてなかなか結実しないのが焦燥感となって毎日私を苦しめる。私の中には貴族的なものと奴隷的なものが相反するように同居しているようだ。

ユダヤ的思考について興味を惹かれたのはカフカを読み始めたのがキッカケである。ユダヤ的な思考というものが確かにある。カフカフロイトマルクスフッサールプルーストアインシュタイン、P.ドラッカーシャガールマーラー、ホロビィッツ、レヴィ=ストロース、など全てユダヤ人であった。ユダヤ人には独特の匂いがある。知性を重んじ精神的にタフな印象がある。多少薄情なところも見受けられる。偶然にもカフカを通じて、それも執拗なまでにくり返し格闘しながら、ユダヤ的思考が何たるものかが薄っすらと理解しかけたところで、著名なユダヤ人の業績や作品に接することに意識的になった。いま読んでいるメラニー、クラインという精神分析家もユダヤ人だ。

知恵を携帯する民族であること、長年の迫害の歴史から誰よりも、卓越していることが当たり前なこととして刷り込まれている人種。前提からして世界がどうなろうが生き延びる術をつねに持っていること。頼れるのは唯一自分の能力にあるとの強い意志。思うに人並み以上に考えるとユダヤ人の思考にどうしても近づくのは何か意味があるに違いない。一定以上の思考をすることで自然とユダヤ人的思考が向こうの方からやってくる。時間は限られている。ユダヤ的思考を完全に身につけ、東洋人である遺伝子を利用して新しいものを見出すことが当面の課題である。

思考には一神教のものと多神教のものがあると予想され、時代の要請は一神教であるが、多神教の思考には豊饒さと巨大さがあり、これから徐々に見直されるであろう。尚、多神教は女性的なイメージがある。