未知の存在のかたち

未だ明らかになっていない未知の存在が、仮に存在していると仮定する。その存在は、問いと解というかたちで表現されるが、存在自体が知られていないので問われない。そもそも難問は問われているという意味で、存在を既に明らかにしている。ただ解く作業に行き詰っているに過ぎない。

だが真の難問は問われることはない。また存在は問いと解とのセットである。言い換えるならば、問いは存在の半分を示し、解はもう半分の存在を示す。この二つを加えてはじめて存在が証明される。

どうやって問いを発見するのかに興味があるが、いま存在が明らかになっているものの多くは、常識の近くにある。一方で新しい存在は常識から限りなく乖離しているはずだ。

問いを発見するためには、少なくとも既存の思考の枠内で考えても無理であろう。

混沌に体系を与える

レビィ=ストロースの「野生の思考」。

未開人は野蛮と見做されてきたが、彼らの思考が西洋人と同水準と言えるほど秩序立ったものでかつ明晰であることを著者は示した。つまり見方を変えれば立派に深い意味があった。

未開人の言動や風習の理解は、西欧の理性から捉えられたもので無意味、不可思議、奇妙で愚かなものという一方的な偏見の中にあった。

レビィ=ストロースは、一見無秩序に見える未開人の思考と行動の内に秩序を見出した。ここがポイントであり普遍的な思想である。

いまここに了解不可能な他者あるいは現象があるとする。これを理解可能にする手法を発見することができれば、了解範囲内に持ち込める。混沌に体系を与える作業の可能性を彼は教えてくれる。

2016現在、未開人と同様、東洋の内向き文化の潜在的な卓越性はそれほど認知されていないように感じるし、数学も科学も西洋的思考から生じたものに過ぎない。過ぎないとは東洋的なる数学とは語弊があるが、そのような何か未だ価値体系に収まっていない、新しい認識のための知的な方法や手段があるかもしれないのに。

価値体系を与える主体は誰かと言えば、西洋的で意識的な思考である。知的という言葉には頭脳主義の臭いがする。ロダンの「考える人」にその典型を見る。

思考のベクトルはIQに代表されるように未だ西洋から東洋の方向に向いているのは何故か?

そして東洋からみた西洋となる時代が、やがて到来するのか?

ポケモンGO

ポケモンGOの爆発的なヒットにも拘らず、関連企業の儲けは一時的かつ限定的になるだろう。というのはそれが貧困ビジネスだからで、富裕層は手を出したがらない。金持ちほど時間の貴重性をよく知っており、ポケモンGOはまさに時間の浪費以外の何ものでもない。しかも比較的若年層がするゲームであって、高齢者は先ずやらない。人口比率から見ても、またはせいぜい中高年の幼稚化を考慮したとしても、ポケモンGOのヒットは限定的だし、売上げも同様に限定的なものにならざるを得ない。但し注目すべきは、稀有な社会現象であることは確かでポケモンの人気と拡張現実的(AR)の融合に着目したのは新しい。依存性の高いゲームであるから、これからの動向にまたこの社会現象に対する行政の反応に興味がある。キャラクターの拠点となるところ、例えばマクドナルドなどの変化も観察対象となる。   

労働価値

なぜ医師や弁護士の収入は普通のサラリーマンよりも高給なのであろうか?それは彼らの労働力の価値が高いからに他ならない。彼らはこの労働力を獲得するまで、かなりの投資をしたはずである。収入を多くするための手っ取り早い方法は自己の労働力の価値を高めるということになるだろう。それは誰もがたやすく真似できるものであってはならないし、需要が全くなければ意味がない。もっとも価値があるのに需要がない場合、自らの力で需要を喚起することもできよう。考えるべきは組織に属しながら自己の労働力を一定価格で売る、いわゆる会社員としての働き方を見直し、独立していつでもどこでも通用するような価値と稀少性が内在された労働力を持つことにある。

貴族なるもの奴隷的なるもの

貴族的なるものは宙に浮いているイメージがある。一方で奴隷的なるものは大地に接触しているイメージがある。土着的で現実的な奴隷のイメージと空中的で空想と理想としての貴族的なるもの。空想は大地と乖離していて空中をふらふらと逍遙している。貴族的なるものは現実を忌避して、どこまでも浮かんでいる。非現実ともいえるが高級な思考を伴っていてプラトンの言うイデアのようなもの。労働とは余程縁がなく手が綺麗で細く繊細でかつ細い。まるでジャコメッティの彫刻のようだ。空想はリビドーの昇華とも表現される。奴隷的なるものとの決定的な違いは母なる大地との接点がないことであるから、現実的な常識人の眼からすると些か頼りなく見える。労働者と奴隷的なるものと現実と常識はほぼ同じもの。ここではイメージを隠喩として表現してみた。思考者としての貴族的なるものの印象。

知の時代

スマホと人間がセットであるように、AIと人間がセットになる。AIと人間が二つで一つになるということは、人間の能力をあたかも筋肉における筋肉増強剤のように知的能力をも増強させることを意味する。これはまさに人間の労働力を増大させることに他ならない。(但し、知的分野に限る)

これから予測できる未来は、地球規模での知的享楽である。一見、日本では一億総白痴であるかのように見えるが、グローバルな視点に立つならば、知的能力と知のサービス市場は怪物的に巨大化する。

 

人工知能

目標を持つことはいいことだ。しかし最近は事情が変わってきた。例えば東京大学に入りたいと考えた学生がいたとする。ハーバードでもいい。いま人工知能で東大合格を目指すプロジェクトが進行している。2016現在で大抵の大学合格レベルに達している。人工知能難関大学に合格するのも近い。さらにプロ将棋士になりたいと思った若い青年がいたとする。この青年の将来はどうなるか。まず人工知能があらゆるプロ棋士に勝つことになる。デープラーニングにより人工知能同士が競い合うようになる。次第に人間の知能では理解できない領域まで及ぶ。プロ将棋達はその対戦の分析するだけの存在になる可能性も否定できない。更に作家になりたいと志を高く持つものも多いであろうが、これも人工知能がすでに文章が書ける限り芥川賞などの文学賞受賞も時間の問題になる。重要なことは人工知能が新たな労働力になるという現実である。中国ではメールのやり取りを人工知能が行い、仮想の相手に恋をする若者も多いと聞く。これはもう人工知能で稼ぐシステムが出来上がっていることを意味する。人工知能はもはやプラットホームになりつつあり、周辺に新しく労働市場が生まれる。冒頭の問題。目標は人工知能の急激な進歩を考慮して決めざるを得ない。付け加えると、人工知能には身体が無いこと、当然ながら無意識もない。発見や発明には身体と無意識が大きく関与している。もちろん自由な遊びも難しい。フロイトの言うようにユーモアセンスも無意識の産物であるから人工知能には苦手である筈。アナログへの回帰は容易に予想できる。繰り返すと人工知能が今後大きな労働力になること。マルクスによれば労働力の結晶が商品になるから、賢い人は既に人工知能を使って儲けるビジネスを考えている。