言葉の誕生

言葉が生まれる瞬間とはどんなものか?

完成された形で言葉を使い始める者は少ない。

はじめは何となく曖昧で、はっきりしない星雲の如き観念が頭の中に生じ、それを言葉に変換した瞬間に自然と、誠に不可解なことなのだが、次に来るべき言葉と文脈が同時進行で立ち現れる。言葉が次の言葉を井戸のような混沌から引っ張り出す。但し、自由連想とは異なり意識の関与がある点に注意。

考えたことを喋っているのではなく、恰も何者かによって、喋らされているといった感覚に近くなる。精神医学的には病的状態に分類されるが、言葉が誕生する瞬間とその過程をつぶさに分析してみるならば、前もって準備された言葉の方が稀な現象だと言いたくなる。

それぞれの理解

人間に対してであれ、物事に対してであれ、何かを理解するとき同時に自分の理解の法則に従っている。同じ現象に対しても、人それぞれ理解の仕方が異なるのは理解の法則が人それぞれ違うからである。人はおのれの器の範囲内で物事を理解し解釈する。理解が深くなるためには理解するための法則そのものが深淵かつ豊かでなければならない。謎を理解しようとする者は、自身にも謎を秘めている。

世界の認識と物事一般の理解とは、どこがどう異なるのか?世界の認識の仕方にその人の特徴が端的に現れるが、主観が何から成り立っているかによって理解と認識の度合が違ってくる。

単純に、よい主体はよい世界認識を持ち、反対に悪い主体は悪い世界認識を持つと言える。よい主体と悪い主体がどのように構成されるかと尋ねるならば、生まれ育った環境、そこから生じた気質と日常習慣や癖、興味の方向や嗜好などによるであろう。誰しもが偏見の眼で世界を見ており、それがどのような偏見であるかは本人には解らない。真実は常にその人にとって歪んでいる。

ユダヤ的思考

長くて冗長な文章を書く柄ではない。ラ.ロシュフーコーのように端的に短く書きたい。知的方面でも短距離走者なのだ。カフカフロイトを読み、自由な空想の羽根を飛翔させる。音楽を人生の中で重要なものと位置付けているのはなぜか変わらず、バッハを弾くことにこだわる。最近はミシェル.フーコーが面白い。マルクスも再読していて、商品の価値と労働力の結晶の関係、貨幣と交換価値ついて熟考している。毎日、新しい情報に振り回され、時代に乗り遅れないように2016.8月はフィンテックの入門も齧る。それまでにIot、インダストリー4.0、AI の知識が要る。つくづくアメリカは金融と新しいアイデアに積極的で、日本は10年遅れていること分かる。

随分と道草を食ったが、一重に欲張りな性質と総合的な人生と知的かつ文化的かつ、世の趨勢を無視できない頑固で固陋な性格のためで致し方ない。20年以上、一貫していることは、学問的でないが自由で芸術的な型に嵌らない思索であるが、明確な成果としてなかなか結実しないのが焦燥感となって毎日私を苦しめる。私の中には貴族的なものと奴隷的なものが相反するように同居しているようだ。

ユダヤ的思考について興味を惹かれたのはカフカを読み始めたのがキッカケである。ユダヤ的な思考というものが確かにある。カフカフロイトマルクスフッサールプルーストアインシュタイン、P.ドラッカーシャガールマーラー、ホロビィッツ、レヴィ=ストロース、など全てユダヤ人であった。ユダヤ人には独特の匂いがある。知性を重んじ精神的にタフな印象がある。多少薄情なところも見受けられる。偶然にもカフカを通じて、それも執拗なまでにくり返し格闘しながら、ユダヤ的思考が何たるものかが薄っすらと理解しかけたところで、著名なユダヤ人の業績や作品に接することに意識的になった。いま読んでいるメラニー、クラインという精神分析家もユダヤ人だ。

知恵を携帯する民族であること、長年の迫害の歴史から誰よりも、卓越していることが当たり前なこととして刷り込まれている人種。前提からして世界がどうなろうが生き延びる術をつねに持っていること。頼れるのは唯一自分の能力にあるとの強い意志。思うに人並み以上に考えるとユダヤ人の思考にどうしても近づくのは何か意味があるに違いない。一定以上の思考をすることで自然とユダヤ人的思考が向こうの方からやってくる。時間は限られている。ユダヤ的思考を完全に身につけ、東洋人である遺伝子を利用して新しいものを見出すことが当面の課題である。

思考には一神教のものと多神教のものがあると予想され、時代の要請は一神教であるが、多神教の思考には豊饒さと巨大さがあり、これから徐々に見直されるであろう。尚、多神教は女性的なイメージがある。

 

身体の声

肉体を猛烈に酷使したときに、身体がみずから声をだすことがある。普段は頭で考えだされる声が、身体の力と頭の力の連携により声をだす。そしてそれは言葉となって表出される。

このときの精神状態は半ば恍惚としていて、意識が明晰とは懸け離れ、あたかも霞が掛かったように朦朧としている。酩酊しているのに似ている。緊張は無くむしろ鈍感になっているのだが、異常な集中力で身体が頭脳以上の働きをする。このとき確かに身体が主体になっている。

身体が言葉を発するためには、肉体が限界近くまで疲労せねばならない。だが、これだけでは十分ではない。あらかじめ頭脳の意識的な運動が前提となる。唯の肉体労働者であるだけでは身体の声を聞くことはできない。

身体の声は、身体のみならず蓄積された知的作業を介して、突発的に起こる現象であるらしい。

歪曲される言語

言葉だけで、その人を判断することはできない。なぜなら、彼の思いが言葉に変換されるためには技術が必要だから。これは自分の思春期の頃を想像すれば分かる。言いたいことが上手く言葉で表現できないもどかしさを感じたはずだ。

他人は言葉でしか判断しないが、言葉の運用のうまい人と下手な人がいる。

言葉になる前の観念は、彼らの頭の中にある。彼は、その観念をどのようにしたらそのままの形で、言葉に変換できるかに尽力する。

うまく言葉にできたとしても、次の問題に直面する。すなわち、それを理解しようと試みる第三者の了解問題である。言葉がその通りに理解されれば本望だが、人間の理解には癖がある。第三者の思考習慣に則り、言葉の真意を都合のいいように解釈しようとするだろう。この時点で、初めの言葉はかなり歪曲される。

こうしてコミニュケーションは誤解される。

限界を超えた組織

組織によっては、スーパーCEOで持ってしても経営が不可能な企業がある。

これと同様のことが今の中国に言える。

大国中国を統治するのは大変難しく、為政者としての手腕が卓越していても尚、困難を極める。中国という不安定な国は、統治される限界を既に超えている。

人間に当て嵌めれば、自我がうまくコントロールされていない状況であるから、客観的に変に見えたり矛盾もあれば、理解し難い動きをする。内政に配慮しながら外交問題を処理するのは、人間業を超越しているかのよう。言論が抑制されるのも、知識人が真実と正義を主張しだせば国家運営の危機を引き起こしかねないから。

以上を一般化すると、統治や経営の限界を超えた組織体が、どのようにトップの影響を受けるか? 頻発する問題に対してどのようにコントロールされ得るのか?そして組織体はどう反応するのか?

主に、トップと組織との相互関係についてどう考えるか。

きれいは汚い、汚いはきれい

右と左、+と−を間違えたとき、頭の中に閃いたものがあった。

それは大胆かつ奇妙な仮説だが、左も右も等価、+も−も等価という考えで、現実には一歩間違えれば重大なことになるのは承知している。しかし上と下の価値も、ただ上が良くて、下が悪いと思い込んでいるだけであって、実際は価値の差でしかなく、優劣ではないのではないか?

つまり下位の価値を低いとし、上位の価値を高いとする判断は、時代的、文化的なものにより規定されているのではないか?

どうして健康が善で、病気が悪と言えるのか?それが当たり前だと思っているからで人体に悪だからと言って即、悪とする理由はない。それが唯一の理由なのなら不十分であり、厳密な意味での根拠とはならない。ここに思考停止を見る。

マクベスの台詞に「きれいは汚い、汚いはきれい」という言葉がある。詩人の直感は、時に最先端の科学をも飛び越える。